"ボランティア”の衰退

2011年を境に、顕在化した気がする。人々は非営利で且つ社会や他者に貢献する活動を“ボランティア”と呼称しなくなった。さらに言えば、ボランティア活動と呼ばれる行為の需要と供給は確実に減っている。その理由を考えてみる。

ボランティア元年と呼ばれた1995年前後(バブル崩壊の余波がまだまだ強かったらしい時代)、金にならないことを善意でやるなんて「綺麗ごと」「タダより高いものはない」とする風潮が確かにあったと思う。無償で、主体的に「誰かのために何かをしたい」という想いに人々は戸惑い、当てはまる言葉(概念)を欲した。その末に〝ボランティア”というカタカナを当てはめたのは、戸惑う気持ちを日本語として捉えることができなかったため(一時保留として)ではないだろうか。ボランティア活動は、つまり特別で曖昧で、非日常の行為だった。

時が経つにつれ、それは日常になっていった。

そして、2011年を境に役割を終えたのだと思う。自分が行う行為は、過去に構築されたボランティア概念のように決して特別で非日常なものではない。「ボランティアするなんて偉いね」「ボランティアなんて偽善」ではなくなった。他人事ではなく、切実さを持った自分事になった。

現在。僕個人のFacebookのタイムラインだけれど、かつてボランティア活動として一括りになっていた社会貢献活動、非営利活動等の記事が数分おきに表示される。細分化し、多様化し、個別のニーズに合致するような活動が数えきれないほどに溢れ可視化されている。1つの終わりが、多くの始まりを生んだことに間違いはないだろう、と思う。

というようなことを、今日職場を訪問してくれた2人と対話して思った。

伝えるときの単純な話


情報伝達において、口頭だけ、よりも文書があった方が伝わりやすいし齟齬が発生しにくい。口頭では、自分が発言した内容を正確に記憶できないし、情報に抜けが無いかチェックが難しい。でも、文書化するのって面倒くさい。言った方が早い.......というのも分かるし、そういった場合もあるだろう。

その線引きをどうするか。それはきっと相手への思いやりだろう(客観性が欠けた感情論だけれども)。この人には、この量の、この質の情報は口頭で対応できる、または文書化して確認した方がいい。といった具合に相手を思いやる気持ち、観察すること。単純なことだけれど、答えのない問題だと思う。

バカみたいだけれど、バカにできないなって思う。簡単そうで、できている人は少ないと思う。できていない自分、反省です。

自分で作ったモノは自分で直せる」という当たり前を発見

先日参加したワークショップでの発見だった。当たり前といえばそれまでだが、私にとっては目から鱗。内容は(スポンジ的な何か削って、白いパテ的なもので塗ったりして、磁石を埋め込んだりして)立体マグネットを制作するというものだった。作り終わったとき、ふと「もしこれが壊れてしまっても、作り方を覚えているから、自分で直せるなぁ」と思ったのだった。

自分で直せるから何だ?と問われれば「使い捨てをしなくてもよくなる」のは私にとってはすごく嬉しいことなんだよ、と伝えたい。部屋にモノが増えない、修理に出す手間(時間とお金)もかからない、作り替えること(応用)だってできる。あと、なんだかんだで楽しいし、暇つぶしになる。

身の回りにあるモノを眺めてみる。自分の手で作れるモノはいくつあるだろう。それが壊れたとき、捨てるしかないのだろうか。最新機器の便利さも大好き。でも、災害があったとき、電気が届かないとき、今文章を打ち込んでいる(極薄ハイスペック素敵)MacBookAirはただの"まな板"になってしまった。本当に困ったときに、"自分で作れる"ことの重要さを身にしみて感じたように思う。なんつって。

思い切りお掃除をした。

思い切りお掃除をした。
集中して、この機会に水回りの汚れを一気に綺麗にしてみた。
やはり、整理された空間は気持ちがよい。(w)

気がつくと、見失っているときがある。手触りというか、実感というか、生きているという感覚を見失っているときがある。存在の不在。ただここにあるだけでは満たされず、何かを求めすぎている。存在理由を探し求めてしまうときがある。

それは悲しいと思う。理由がなければ存在してはいけない、なんてことは悲しい。存在理由、利用価値が無いとイケナイ、なんて悲しい。そんなとき(私の場合に限ってかもしれないけれど)気づくと、部屋が散らかっている。

掃除をして、大切なものを整理する。自分の手に負えるものだけを残す。あとは、友だちを呼んで料理でも振る舞い、一緒に満腹になって酒でも飲めば、だいぶ戻ってくる。忘れたいことと、覚えておきたいことが自然と調整される。深呼吸を思い出したような実感が戻ってくる。冷えた身体に一杯の温かいスープを流し込んだときのように、内側から戻ってくる。なかなか難しいことだけど、日々を丁寧に、愛でるように過ごしていけたらいいなと思う。

スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」

http://www.ted.com/talks/lang/ja/susan_cain_the_power_of_introverts.html

アメリカの(特に男性)社会では「行動する人」=外向的な人物が理想化され、「考える人」=内向的な人はネガティブなイメージを付与されることが多いという。彼女は内向的な人の持つ「考える力」こそ創造の源ではないか、と問いかける。答えのない問題が山積する中で(または答えらしきモノが常に変容し生成される社会の中に身をおく中で)静かに「考える」こと、自己と対話する時間は、短期的に見れば合理的ではないだろう。移りゆく一瞬を捉えるためには「行動」を起こさねばならない。しかし、その「行動」へと導く源泉に「考える力」があるのかもしれない。とか思った。

今日は生存学研究センター(立命館)のセミナーに参加してきた。

生存学とは、障害学と生命倫理学と中間を占める学問領域かと思う。

今回のセミナーでは、産社の大谷いづみ先生の発表が印象的だった。(私も感銘を受けた)カズオ・イシグロの『わたしを離さないで‐原題Never Let Me Go-』(注意・以下ネタバレあり)を題材に、人間を条件づけること(パーソン論)について問題提議がなされた。

どのような条件が揃えば、ある生物(または無生物)が「人格」とみなされるのか。条件の揃わない「質の低い生命」は生まれ(生ま)なくても、死に逝かせても「やむを得ない」のか。ヘールシャムで臓器を提供するために作られた子どもたちと臓器を提供する相手とは何が違うのか。子どもたちは質の低い生命=生きる価値が低いとされ、提供を受ける者は生きる価値が高いとされる。もちろんこれはフィクションの世界だが、例えば社会の役に立つ(とされる)能力のある人なら生きる価値があるという前提は、現実社会にも存在しているだろう。社会の役に立つ能力が低い(とされる)人は、ヘールシャムの子どもたちのように、高い(とされる)人の犠牲になる他ないのだろうか。能力や経済合理性にかかわらず、社会は「よく生きること」を肯定できるのか。

生命倫理学寄りの抽象度の高い問いが突きつけられたが、私が思うことは、立正大の田坂先生の言うように「3人称から2人称に」目の前にいる1人1人の困難を見つめ、耳を傾け、あなたーわたしが日々構築する物語(セルフ・イメージ)の更新に関わり合い承認していく。そして、そこから浮かび上がる個別具体的な困難・障壁に対して、個別で柔軟に対応していくことが、互いにより「よく生きる」ことにつながるのではないか、という空想である。

http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/487

[[]]*1344961618*最近読んだ論文まとめ(後でコメントする)

◆脳神経科学のメタ倫理学的含意
―道徳判断と動機づけとの関係について―
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ11/katagi.pdf

内在性について、中途脳障害を鍵にアプローチした論文。
リサーチクエスチョンは興味深い。
ただ、道徳判断、動機づけetc 各論者間の定義のズレ、
論者個人の時間経過による認識のズレによって、
脳機能というアプローチそのものの意義が薄れ形而上学的な議論になっている。


◆なぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか
http://www.ritsumei-arsvi.org/publications/read/id/215

最近、注目しているナラティブアプローチに関する理解が深まった論文。
「なぜ長期化するのか」というリサーチクエスチョンが鍵。
語る自己、語られる自己、語り直す自己。
全てを語りきることができないゆえに、語りは毎回更新される。
では、語る自己とは何か、いったいどこにいるのか。形を失う、そこに生まれるパラドックス
それを補うために、他者からの承認を必要とする語り手。


◆重度「知的障害」者と呼ばれる人びとへのコミュニケーション支援に関する一研究
http://www.life.osaka-cu.ac.jp/publications/magazine/pdf/2008/07.pdf


社会疫学の発展
http://www.niph.go.jp/kosyu/2007/200756020007.pdf#search='%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%96%AB%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95'

◆世論形成装置としてのデモ
http://www.rikkyo.ne.jp/web/z3000268/journalsd/no6/no6_thesis08.pdf#search='%E4%B8%96%E8%AB%96%E5%BD%A2%E6%88%90%E8%A3%85%E7%BD%AE%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%86%E3%82%99%E3%83%A2'

◆生殖補助医療における患者の倫理観と葛藤
―患者アンケートからの考察―
尾三城子(大阪大学大学院医学系研究科博士課程、医の倫理学
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ11/kadoo.pdf

生殖医療(不妊治療)を利用する際、これまでは経済的な問題ばかりを注目してきたが
利用者は「命の誕生を人為的に操作してよいのだろうか」
といった倫理的な葛藤(問題)も抱えていることをデータとして立証した論文。


ジンメルの支配論
早川 洋行
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/381pdf/hayakawa.pdf#search='%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%81%A8%E5%BD%B9%E5%89%B2%E7%90%86%E8%AB%96'

支配論といえばウェーバーだが、 形式社会学で有名なジンメルの支配論も面白い。
ウェーバーと同様、支配は上位の者が一方的に行えるものではないと考え
従属者は権威(Autorität)と威信(Prestige)によって支配されたがっていると指摘する。

権威が「規範と権力の客観性」から生じるのに対して,
威信は純粋に人格の要点から生じるものである。
それゆえに,権威が服従者にたやすく批判の余地を
与えるのに対して,威信は「無制約的な服従
を可能にすることに特徴がある