今日は心斎橋で坂爪圭吾さんのイベントに参加した

坂爪さんは、「ヤバイことだけをして生きる」っていう実験をしている人で、仕事も家も持たずに流浪している(詳しくは彼のブログをぜひ見て下さい http://ibaya.hatenablog.com/
ブログを読んた印象だと、自己主張の激しい人なのかなって思っていたけれど、会ってみると押しつけがましくなくて、でも、自分の生き方が明確で、とにかく気持ちのいい人だと思った。

集まって来た人たちもどっか変で、坂爪さんというカリスマを信奉しているって感じでもない。(良い意味で)自分勝手な人が多くて、その場にいて楽になる感じだった。大学時代は、周りにどっか変な人が多くて、その中にいるととても安らいだ。でも、社会人って呼ばれるようになると、大量生産な紳士服の青山のリクルートスーツみたいな(僕から見ると)小綺麗だけど面白みのない人が多くて、一緒にいて自分が普通だという安心感は得られたけど、それも含めて正直スゲー飽き飽きしていた。

今日思ったのは、普通とか変とか、多数派とか少数派とか、空気を読むとか読まないとか、そんなことは誰かが決めた基準でしかないんだなと。自分自身が自分自身の人生を面白がっているか、楽しんでいるかっていう主観的な絶対的な感覚・基準・軸を持って判断していくことしか、納得した生き方に直結しないんだなと。彼に自分の願望を託すんじゃなくて、自分で開拓していきたいなと、色々思ったのでした。わっしょい。

エセ関西人の夜明け


どうでもいい話ですが、最近の僕は関西弁です。東北から関西に来て、もうすぐ10年。ずっと標準語を通してきました。

たぶん、関西人が苦手だったんです。
京都在住の頃は、生粋の関西人とはあまり接点がありませんでした。大阪に引っ越すと、そうはいきません。上下ヒョウ柄で商店街を闊歩するおばさまや、「お兄ちゃん、これ食べ!」と肉団子を強引に渡してくれる総菜屋のおじさま、競歩大会と見間違うほどのスピードで梅田を行き交う人々と共に生きていかねばなりません。

そうこうしているうちに、イントネーションがズレた変な関西弁を無意識にしゃべっている自分に気づきました。どうやら、関西が好きになってきたみたいです。

なので、もし東北人が下手な関西弁をどや顔でしゃべっていても、温かく見守って欲しい。つまりは、そういうことを言いたいのでした。

どうでもいい話ですが、最近の僕は関西弁です。東北から関西に来て、もうすぐ10年。ずっと標準語を通してきました。

たぶん、関西人が苦手だったんです。
京都在住の頃は、生粋の関西人とはあまり接点がありませんでした。大阪に引っ越すと、そうはいきません。上下ヒョウ柄で商店街を闊歩するおばさまや、「お兄ちゃん、これ食べ!」と肉団子を強引に渡してくれる総菜屋のおじさま、競歩大会と見間違うほどのスピードで梅田を行き交う人々と共に生きていかねばなりません。

そうこうしているうちに、イントネーションがズレた変な関西弁を無意識にしゃべっている自分に気づきました。どうやら、関西が好きになってきたみたいです。

なので、もし東北人が下手な関西弁をどや顔でしゃべっていても、温かく見守って欲しい。つまりは、そういうことを言いたいのでした。

他意のない言葉に、自分でも驚くくらい深く傷ついている

それはちょっとした好奇心。何気ない日常会話の風景。想像力の欠如。

地震は大丈夫だったんですか?」
例えば、出身地を聞かれ「仙台」だと告げると必ず聞かれるこの質問(※この質問に傷ついた訳ではない)。興味を持ってもらえることは嬉しい、悪意のないことも分かっている。僕個人は震災で何か大きな損害を受けた訳ではない。この質問にも慣れている。
でも、僕がもしも「大丈夫じゃなかった」としたら・・・。
想像して欲しい。この質問をされて、どんな想いをするだろうか。

たぶん、こうやって僕自身も人を無自覚に傷つけてきたのだと思う。そこに悪意がないからこそ、日常の中の当たり前の場面だからこそ、見えなくて、気づくことができなくて、タチが悪い。相手を思い遣るということは、本当に難しい。

人(相手も自分も)の持っている力を、信じ続けること


僕にとって、今月は節目になりそうな感じです。2つの大きな出来事をやり遂げることができました。1つは、春から転職したNPOの新人研修に区切りついたこと(まだ続きはするのですが....)。もう1つは、D×Pクレッシェンドのコンポーザーをやり遂げたこと(詳細はこちら→ http://www.dreampossibility.com/news/990/)。

2つとも、とってもしんどかった。新人研修は所属しているNPO精神障害者への就労支援をしている)が持っている4つの事業所(新大阪に2カ所、茨木市門真市)を1ヶ月づつ回り、全体像を掴みながら、サービスを利用している精神障害者と一緒に訓練を受けていました。それが終わって配属先が決まり、今月からは新大阪で支援員をしています。クレッシェンドでは、コンポーザーとして5月から4回ほど通信高校生と一緒に色々なお話をしました。僕の経歴や夢についてプレゼンしたり、高校生たちの夢について語ってもらったり、他愛ない雑談をしたり(←これが一番難しくて、楽しい)でした。

この2つの出来事を経て、実感したことがあります。それは「人(相手も自分も)の持っている力を、信じ続けること」の楽しさです。人は必ず変化します。たった数ヶ月で、ビックリするくらいピカピカな笑顔になっていたりします。それは、元々その人が持っていた力なんだと僕は思っています。

自分でも気づいていなかった、気づいていても上手く発揮できなかった力が、人にはたくさん眠っている。それを根拠なく信じてくれる誰かがそばにいると、ゆっくり時間をかけてその力が目を覚ます。そんな瞬間にたくさん立ち会うことができました。

信じ続けること、待つことは、とにかくめっちゃしんどいです。でも、めっちゃ便利なコンビニやamazonでは得られない(コンビニもamazonもヘビーユーザーですが)言葉にできないような「楽しさ」「嬉しさ」を得ることができた。終わってみてそう感じています。

ちなみに、忘れちゃいけないポイントは(相手も"自分も")というトコです。ついつい「できていないところ」「ダメなところ」を数えてしまうけれど、ちゃんと自分の「できているところ」「良いところ」を認めていかないと。今日も「(良いところを)出し惜しみしちゃだめ」と言われてドキっとしてしまいました。

今日の洗濯と明日の晩飯

「5年後の夢は何ですか?」
金曜日、新人研修(最近転職したので)の講師(中小企業コンサル会社社長)からこんな質問があった。講師曰く「具体的なゴールを持てば、逆算して成長できるから必ず夢は叶う。逆に言えば、何もない人はいつまで経っても何も実現できない」らしい。

その真偽はともかく、めんどくさかったので、僕は彼の論調に迎合して「〇〇をしたいです。そのために2年以内に〇〇をして・・・」的なことを言っておいた。

ゴールを設定して、そこに到達するために何が必要かを考える。そういった考え方も大事だと思う。合理的だし、経済的。

けれども、その価値観が充満した研修室の中は、なんだかとても息苦しかった。語りたくもないことを語らせられたような嫌な気分。

僕は、5年後のことは5年後に考えることにする。振り返ってみて、結果的になにかを実現できているかもしれないし、それさえも自分の思い込みのような気がする。

そんなことより、こんな夏日には洗濯をして、明日の晩飯の献立を考えている方が、僕にとっては幸せだなって思った。

内田さんのこのブログを読んでハッとした


僕の周りには(僕を含めて)なんだか「生きづらそうな人」が多い。内田さんの言葉を借りれば、既存の社会システムにスマートに順応できない、というか、したくない感じ人たちだ。たしかにシステムの中で「費用対効果のよい生き方」"=お金、地位・名声、安定とかは得られないかもしれない。その部分は半分あきらめるしかないのかも。ただ、個人的には、スマートな人って全然面白くない。僕の友だちは皆どこかが"変"で、無駄にいろんなことを考えているから「生きづらい」。その代わりにすごく面白い。目に見えるモノを見せびらかす人より、目に見えない得体の知れないモノを隠し持っているような生きづらい人との交流を(結構しんどいけど)大切にしたいとか思った。


"「あるがままの自己」を受け入れるということは、「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能の様態を選ぶか、「破局的状況で生き延びる力はあるが、システムが順調に機能しているときはぱっとしない」という無能の様態を選ぶかの二者択一をなすということである。どちらかを取れば、どちらかを諦めなければならない
(中略)
だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる"
http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php

自分の強さを認める、という困難さについて

類は友を呼ぶ?のだろうか。僕の周りには、社会に対して不安を持つ人や違和感を持つ人が多い。人と違うことに悩む人、皆と同じステップを踏みたくても踏めない人、同じステップを踏むことに疑問を持つ人。それぞれがそれぞれの葛藤と戦っている。

「自分の弱さを認める」ことが大事だと言う人がいる。上手くいかないのは本人に何かしらの問題があって、それを解決せよと言う人がいる。

僕や僕の周りにはいる人は、そう言われ続けてきた。自分の悪いところを探して、探し疲れて、もうグッタリ。

自分の弱さしか見えなくなり、次第に、他人に対しても弱さしか見えなくなる。

でも、僕個人としては、人には普遍的な強さも弱さもないと思っている。それぞれの個性の発揮が、環境や状況によって強さや弱さといった解釈に変わるのではないだろうか。

自分の弱さを認め慣れてしまったからこそ、強さを認めることの困難さは深い。けれど、何が弱さで、何が強さなのかが環境に左右されるとしたら、トライアンドエラーを繰り返して、自分で見つけていくしかないのだと思う。