今日は生存学研究センター(立命館)のセミナーに参加してきた。

生存学とは、障害学と生命倫理学と中間を占める学問領域かと思う。

今回のセミナーでは、産社の大谷いづみ先生の発表が印象的だった。(私も感銘を受けた)カズオ・イシグロの『わたしを離さないで‐原題Never Let Me Go-』(注意・以下ネタバレあり)を題材に、人間を条件づけること(パーソン論)について問題提議がなされた。

どのような条件が揃えば、ある生物(または無生物)が「人格」とみなされるのか。条件の揃わない「質の低い生命」は生まれ(生ま)なくても、死に逝かせても「やむを得ない」のか。ヘールシャムで臓器を提供するために作られた子どもたちと臓器を提供する相手とは何が違うのか。子どもたちは質の低い生命=生きる価値が低いとされ、提供を受ける者は生きる価値が高いとされる。もちろんこれはフィクションの世界だが、例えば社会の役に立つ(とされる)能力のある人なら生きる価値があるという前提は、現実社会にも存在しているだろう。社会の役に立つ能力が低い(とされる)人は、ヘールシャムの子どもたちのように、高い(とされる)人の犠牲になる他ないのだろうか。能力や経済合理性にかかわらず、社会は「よく生きること」を肯定できるのか。

生命倫理学寄りの抽象度の高い問いが突きつけられたが、私が思うことは、立正大の田坂先生の言うように「3人称から2人称に」目の前にいる1人1人の困難を見つめ、耳を傾け、あなたーわたしが日々構築する物語(セルフ・イメージ)の更新に関わり合い承認していく。そして、そこから浮かび上がる個別具体的な困難・障壁に対して、個別で柔軟に対応していくことが、互いにより「よく生きる」ことにつながるのではないか、という空想である。

http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/487