学力と階層

苅谷剛彦氏『学力と階層』を解説した内田樹氏ブログ。
要約すれば文化資本によって学力に格差が生じるという内容。

「努力する能力」は万人に均等に分配されているわけではない。努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会的達成の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。

http://blog.tatsuru.com/2012/08/08_0900.php

『学校教育において数値化された能力』の低下のみに矮小化して問題を捉えてしまってはもったいない記事。

学力=学習する能力と(勝手に)解釈したならば、それを向上させるためには学校だけでは十分とはいえない。大津市のいじめ問題でも感じたことだが、学校を治外法権の聖域として隔離するのではなく、言うなれば脱魔術化、社会化することが必要ではないだろうか。

人は外在する多様な役割群を学習によって取得し運用することで社会に適応していく。そのためには、多くのロールモデルと出会い、ふるまいを内面化する必要がある。現在の学校教育は、この部分の需要まで過度に期待されている。当然ながら、隔離された学校でそれを補いきることなどできない。
子どもの目線に立てば、学校が全てではなく、学校が社会の一部、地域の一部に過ぎないという事実は救いになる。そして、学校の外の世界にある多彩なロールモデルと出会うことによって、学(習能)力は向上していく。

この記事では、階層上位の子どもは努力によって社会的成功を収めた人々に囲まれているため、「努力する能力」が高く学力も向上するとしている。
では社会的成功とは何を指すのか。既存のモデル(いい大学→いい会社=幸福)崩壊と、価値観の多様化が進む中、経済的成功=社会的成功とは簡単に言えなくなってきている(と私は認識している)。
金持ちやエリートだけが社会的成功者ではないし、彼らだけが「努力」をして、それが報われているわけではない(と私は認識している)。
社会的成功そのものの価値多様化と、誰もが「努力」をし社会参加をしているという事実を認識し、ロールモデルとして子どもたちが享受することができる社会になれば、学(習能)力はさらに向上するのではないだろうか。


※ちなみに、苅谷氏の著書を拝読したことはありません。すみません。