「ことばときこえって?言語聴覚士の世界」に参加した

今日はなにわ橋駅で哲学セミナーに参加した。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/2012/000370.php

後半は対話形式の哲学カフェだった。
そこで議論に上がった以下のトピックが興味深かった。

・障害と治療について(何をもって正常と異常を判断すべきか、障害とは治すべきものなのか)
・人工内耳の是非(手話を母語とするろう者は文化への侵害として、人工内耳に否定的な人もいる)
・「聞く、話す」は、それ自体が目的となり得るか(コミュニケーションの手段としてではなく、その行為そのものが根源的に目的として成立しているのではないか)

個人的で安易な感想
 
 私個人は、知覚そのものが普遍性を持たない、個別のものだと捉えている。誰も誰かになることは不可能なのだから、絶対的な平均(ふつう)を算出することは不可能だろう。「正常(ふつう)」そのものが幻想だと捉えるならば、あるいはもっと視野を広げることができるのではないだろうか。うーん、これは安直な意見かもしれない。困難を抱える人にとって、ナンバーワンではなくオンリーワン!などと綺麗ごとを言ったところで、何になるだろう。ただ、私がもし今「聞こえ」の機能を無くしたら、大変な欠如を感じ、自己イメージを損なうだろう。間違いなくそれを補いたいと切望する。一方、ろう者の中には「聞こえ」は過剰でかつ自身の文化を否定するものとして捉える人もいる。まとまらないけれど、環境と個人(文化)の問題は多様で、それを受容していけたらと安易に思った。