1月6日にNHKで放送されたTED「Pico Iyer: Where is home?」がとても良かった

ときどき、「誰かの言葉」を言わされているような気になることがある。無難な言葉、道徳的な言葉、聞こえの良い言葉、扇動的な言葉、刺激的な言葉、感情的な言葉、客観性を装った言葉、正義の言葉。それを口から出したと同時に、言葉によって何かを埋めたはずが、失われてしまうような感覚に襲われる。このTEDを見ていて、そんなことを思い出した。

生まれた場所、家族、親戚、学校。「自分」を形成したものは、同時に「自分」を縛り、選択の余地もなく一方的に価値観を植え込んでいく。そのしがらみから逃れるように進学したり就職したりして新しい場所に移動しても同じだ。「学生とはこうあるべき」「社会人とはこうあるべき」という単純な価値観を無条件に受け入れることを強要する(ように個人的には感じてしまう)。そして、それ屈したとき「誰かの言葉」を言っているような気がしている。
一方で、過去や古い習慣、考え方を否定して、新しいものや刺激的なことに興奮しているときも同じだと思う。「誰かの言葉」に魅了されるとき、同時に何かを見失っているような感じがある。

Pico Iyerさんは、グローバル化によって"「どこから来たのか」より「どこへ行くのか」が重要な時代に"なり、現代人は四六時中動き回って「自分から目隠しをして見えないと言って」自分の居場所を見失っていると指摘する。だからこそ、立ち止まって自分を見つめ直すことができる、自分らしくいられる場所が必要で、そこが自分のホームだと語る。

彼の考えを僕なりに解釈すると、過去も未来も自分らしい方法で大切にできる今を生きることができるとしたら、そこがホームと言えるのかもしれない。過去に囚われて前に進めない自分や、未来ばかりを見てバズワードに誘惑される自分が発する「誰かの言葉」を自己批判や自己否定ではなく、立ち止まって見つめられるようになりたい。