得手?不得手?

僕は細かいことが苦手だと思ってる。手先を使った作業は雑になってしまうし、雑になってしまう自分にイライラする。今日も、小さなものを袋の中で並べる作業で発狂しそうになった。にもかかわらず、編み物に挑戦してみると、あまりに楽しくて熱中してしまった。また、料理はかなり好きな部類に入る。一体何が違うのか、自分でもさっぱりわからない。

そうやって、自分自信が決めつけていた得手不得手も更新されていくのだから、人間って奥深いなと思ったのでした。

NHK「幸福学」白熱教室を結構好きで見ている

「幸福になる人間関係とは?」が第4回のテーマ。幸福は人から人に伝染する(3人目までらしい)ため、人間関係=幸福度といった内容。幸福は幸福を呼び、逆も然り。人との出会いや関わりを大切にすることが何よりも大事とのこと。

面白かったデータとして、アメリカでは中年の危機?で一旦は幸福度が下がるが、高齢になるとV字回復する。一方で日本は右肩下がり。その違いも人間関係の差だった。数年前「無縁社会」や「孤独死」というワードが流行したことを思い出す。

個人的に思うことは、日本社会では「働く」ことに重きを置きすぎる。長時間労働が災い?し、人間関係が「働く」に集中する。職を失う=ほとんどの人間関係も同時に失う→無縁社会孤独死(というのは矮小化し過ぎだけれど)。

家でも職場でもないサードプレイスを持つことや、幸福な人と出会いを大切にすることで幸福度を上げることができるのだとしても、仕事が忙しくて、そんな時間がない!→金で何でも解決、ストレス発散!→もっと稼がねば!→といった悪循環を生むのかもしれない。

やはり、僕は他人に飯を食わせるのが異常に好きみたいだ

今日の晩飯は、仕込んでおいた2日目のカレー(バター、チーズ、エリンギをたっぷり入れてみた)。同居人が目の色を変えながら空になった鍋にゴハンを入れ、こびりついたルーまで貪っている姿を見て(正直ちょっと怖かったけど)嬉しかった。

明日は、頂き物のアナゴと芝エビを解凍して海鮮鍋にでもしようかなぁ。そんなことを考えている時間も結構好き。美味しいものを食べていればそれで幸せ....的な。単細胞な人間です。

やはり、僕は他人に飯を食わせるのが異常に好きみたいだ

今日の晩飯は、仕込んでおいた2日目のカレー(バター、チーズ、エリンギをたっぷり入れてみた)。同居人が目の色を変えながら空になった鍋にゴハンを入れ、こびりついたルーまで貪っている姿を見て(正直ちょっと怖かったけど)嬉しかった。

明日は、頂き物のアナゴと芝エビを解凍して海鮮鍋にでもしようかなぁ。そんなことを考えている時間も結構好き。美味しいものを食べていればそれで幸せ....的な。単細胞な人間です。

1月6日にNHKで放送されたTED「Pico Iyer: Where is home?」がとても良かった

ときどき、「誰かの言葉」を言わされているような気になることがある。無難な言葉、道徳的な言葉、聞こえの良い言葉、扇動的な言葉、刺激的な言葉、感情的な言葉、客観性を装った言葉、正義の言葉。それを口から出したと同時に、言葉によって何かを埋めたはずが、失われてしまうような感覚に襲われる。このTEDを見ていて、そんなことを思い出した。

生まれた場所、家族、親戚、学校。「自分」を形成したものは、同時に「自分」を縛り、選択の余地もなく一方的に価値観を植え込んでいく。そのしがらみから逃れるように進学したり就職したりして新しい場所に移動しても同じだ。「学生とはこうあるべき」「社会人とはこうあるべき」という単純な価値観を無条件に受け入れることを強要する(ように個人的には感じてしまう)。そして、それ屈したとき「誰かの言葉」を言っているような気がしている。
一方で、過去や古い習慣、考え方を否定して、新しいものや刺激的なことに興奮しているときも同じだと思う。「誰かの言葉」に魅了されるとき、同時に何かを見失っているような感じがある。

Pico Iyerさんは、グローバル化によって"「どこから来たのか」より「どこへ行くのか」が重要な時代に"なり、現代人は四六時中動き回って「自分から目隠しをして見えないと言って」自分の居場所を見失っていると指摘する。だからこそ、立ち止まって自分を見つめ直すことができる、自分らしくいられる場所が必要で、そこが自分のホームだと語る。

彼の考えを僕なりに解釈すると、過去も未来も自分らしい方法で大切にできる今を生きることができるとしたら、そこがホームと言えるのかもしれない。過去に囚われて前に進めない自分や、未来ばかりを見てバズワードに誘惑される自分が発する「誰かの言葉」を自己批判や自己否定ではなく、立ち止まって見つめられるようになりたい。

旧帝大卒修士→欧州大学院卒博士の文系娘(35歳)がワープア(年収150万)で困っているという母親の記事

「高学歴で独身・貧乏=終わり・負け組」というのが一般的な発想(≒常識)なんだろうか。この母親が見ているのは「自分」と「世間」だけで、「娘」の立場になって書かれた言葉が見当たらない。

安定した職・結婚・出産育児・介護・研究etc 何を選択するかは本人の自由だし、どの選択が正しいとか誰にも言えないはず(全部が正しい)。何に価値を感じるかはそれぞれなのだから。

別にいいじゃん、研究に人生を捧げる道だって。本気で夢中になれるものに出会えるって、すごく羨ましい。それこそ、海外の大学院の博士号を取るほどの何かなんて、そうそう見つからない。「赤の他人だから言えるんだ」と言われればそれまでだけれど。
研究者の娘が心配です : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/1206/632366.htm?o=0

「生きづらいよね」って言える社会から始めてみたい

最近、いろんな場面で「生きづらさ」という言葉に出くわす。昨日の家入一真さんのセミナーでも、D×Pさんの研修でも。今彼らが注目を浴びるのは、たぶん具体案を提示し、体現しているからなんだと思う。「生きづらいなら、こんな抜け道があるよ」「大通りだけが道じゃない」そんな風に僕たちを誘っている感じがする。

大多数の人が彼らのようには(すぐには)できないと思う。満員電車に乗り、バイパスで渋滞に捕まる。そうして(疑問を持っていても)現実と折り合いをつけていく。もちろん、「満員電車に乗る=悪」じゃない。ただ、みんながみんな、同じ時間に通勤・通学しなくてもいい。そんな生き方もありだと思う。

そう言えることが大事だと思う。「満員電車に乗りたくない」「時間を変えて出社・登校したい」とか。たぶん、「みんな我慢してるんだ。お前だけ文句を言うな」とか言う人も一定数いると思う。でも、みんなが我慢しているからこそ変える必要があるんじゃないかな。

「生きづらいよね」と言う。「生きづらいよね」と言われても否定しない。そんな社会になったら、結構「生きやすく」なるような気がする。